私のオーディオ歴

電気製品の話
 

  ものごごろついたころの私の生家の電気製品は、白熱電灯とラジオくらいしかなかった。蛍光灯もまだ無かった頃のことである。その次に登場したのは電気洗濯機くらいだっただろうか。
 当時テレビは裕福な家にはあったが、わが家では夕御飯をすませてから、2軒隣のお宅にお邪魔して、テレビを見せてもらっていた。それはゴブラン織の覆い布を上に上げて、観音開きの木製キャビネットを開いて、その中にテレビが入ってあった。その家の家長がテレビの左下にある電源スイッチ兼ボリュームをパチンと入れ、右にあるちょっと大きめのツマミをカチャカチャ回してチャンネルを選ぶのである。そして部屋の電灯を消して正座して見せて頂いていた。もちろん白黒である。
 小学校に通う前のこと、祖父と散歩をしていた時、幼い私が近所の家の屋根の上に眩しく光るアンテナを指さして「おじいちゃん、うちの屋根にもあれを立てて!」と言ったそうである。もちろん私はその当時の記憶はない。加えてアンテナがテレビに関係があるとも知らなかった。しかし祖父は、私がテレビを欲しいと勘違いした様で、それと戦後日本最初のビッグイベント「東京オリンピック」が近かったこともあって、わが家にテレビが登場した。早川電気(シャープ)の14型、押しボタン式チャンネルの付いた、画面の両側に4つのスピーカーのあるもので、誇らしげに3ウェイ4スピーカーというシールが貼ってあった様な気がする。
 ラジオはその前からあった。今の14型ワイドテレビを少し小振りにしたような大きさの真空管式のものであった。その頃確かNHKの第1と第2放送でステレオ番組もあった様に思う。兄貴が自作した5球スーパーというラジオと2台並べて家族で聴いたこともあった。
 その時代のレコードは、わが家ではまだ78回転/分で、30cmの盤が10分くらいで終わっていた様な気がする。ごくごく普通にぜんまい式の蓄音機を聞いていたことがある。その後78回転、33回転、45回転のレコードが聞けるレコードプレーヤーを前出の兄貴の作ったラジオの後ろの端子につないで、電蓄(電気蓄音機)代わりにして聴いていた時期もあった。
 録音機は、父親がどこかから借りてきたオープンリールフルトラックテープレコーダーから始まる。その後ソニー製の5インチのオープンリール2トラックモノラルのものでテレビの音声をエアーチェックしていた。小学生の時である。小学校高学年で放送部に入っていたので、そこではオープンリールのレコーダーで編集して何か作っていた様に記憶している。
この時期に私の録音人生が始まる。
 1台のテープレコーダーで自分の演奏を再生しながら、もう1台のテレコで録音すると一人で合奏ができる。それをまた再生しながらまた別の楽器を演奏して録音すると三重奏になる。それをまた再生しながら何かを演奏するとカルテットになるのである。音はどんどん悪くなって行くが、一人で合奏ができる。すごいことだ。

 次に父親が買ったのは7インチのオープンリールテープレコーダーだった。そのあと頃にやっとカセットテープレコーダーが出てきた。それは当時すごく音が悪く、電話の声の様だった。
 確か兄貴の高校入学にかこつけて父親がわが家にステレオを買った。当時としてはカルチャーショックだった。とてもいい音で音楽が聴こえてくる。もちろん今の高級ミニコンポ程度だっただろうけど、当時はどこの家にもそんないい音のステレオなんか無かったので、私の自慢になってしまった。
 


私のスピーカー歴

私の人生を変えた小さなスピーカーの話
 

 現在の私は、もうすっかりオーディオマニアではない。ステレオ関連の雑誌も最近4〜5年は購入していない。でもかつては人に言わせると相当なマニアだったらしい。しかし高級なシステムで、というのではなく、お金をかけないマニアだったから、まあ、たいしたことはない。
 そのきっかけになったのは、中学3年の時に、スピーカーユニットを1セット買ったことから始まった。
それは、フォスター電機(現フォステクス)のFE−103SRという、2本で3千円くらいのユニットであった。それを購入に至った話は、またそのうちということにして、このスピーカーユニットとの出合いが私の人生を変えてしまった。
 その頃、私の自宅には、前述の当時としては豪華なステレオセットがあった。パイオニア製のトランジスタアンプのもので、ベルトドライブのレコードプレーヤーとFMチューナーアンプが一体となった中央部と、セパレート型で左右に30センチ3ウェイ4スピーカーに分かれている当時としては画期的で、現在のステレオの基礎がすべて集約されていた様な製品だった。当時としてはとても良い音だった。なにしろ楽器の音が楽器の音で鳴ってくる。今では当たり前の話だが、当時はそういうものはなかった。
 ところがしかし、そのあたりの年齢というと、自分のものが欲しい年頃で、どんなものでもいいから自分専用のものを手に入れたかった。といってもたいしたものが買えるわけもなく、結局その3千円也のユニットを買ったのであった。
 家を増築した際の余りの床板を切って、指定されたバスレフ型の箱(エンクロージャー)を作り、スピーカーユニット部の穴は、確か兄貴の知人に切ってもらった様に思う。
 少しずつ作っていったため、たぶん随分時間がかかってようやく完成した「私の」スピーカーシステムは、前出のパイオニアのステレオのアンプにつないで鳴らすことになった。
 その小さいスピーカーの音を初めて聴いた時の感動は、すさまじいものがあった。もちろんパイオニアのステレオの30センチ3ウェイのものと比較したのであるが、大きさ(容積)はたぶん20分の1ほどのその小さなスピーカーから聴こえる音は、極めて自然な、広がりのあるものであった。もちろん重低音も超高音も出ないのであるが、躍動感のあるすばらしいものだった。

 これ以降現在までに約30組のスピーカーの箱を設計し製作した。
 この最初の作品と最後に作った20センチ3ウェイ(10センチフルレンジ+ウファー+スーパーツィター)の2つは現在も使っているが他はすべて人の手に渡った。
 しかしながら現在のメインのモニター及び鑑賞用のスピーカーは、自作ではなく、既製品である。それは、現在は昔と違って、既成品が普及品であり、自作品は超高額品になってしまったからである。本当に最後に作ろうとした私の夢のスピーカーシステムは、材料費だけで現在愛用している既製品スピーカーの4倍の価格になってしまうことが判り、夢のままで終わることに決めたのである。

 では、「どうしてその小さいスピーカーが私の人生を変えたか」というと、大きさや形、値段、知名度などにかかわらず、「すばらしいものはすばらしい」ということを教えてくれたからである。

 

  • 松岡秀明さんのオーディオ考古学・・・ちょっと前のオーディオ装置についてのいろいろな情報があるページです。

  •  

     
     

  • 感想などをお聞かせ下さい 
  •            
    ホームページに戻る