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昭和32年、和歌山市生まれ。市立広瀬小学校、同城東中学校、県立星林高校の出身。大学は兵庫県西宮市でそれ以降西宮在住。 |
ものごころがついた頃から、音楽をしている。でも、どうしてかは判らない。
写真好きの父親、ごく普通の母親、非常に厳しい兄貴、よくある姉貴、祖父、祖母の7人家族、3人兄弟の末っ子として育った。 「兄姉の2人とも、クラシックピアノがうまかった」と記憶している。しかし、幼い私にとってその頃そのように思っただけかもしれない。 小さい頃、自宅の何処かに兄貴のピアノの発表会の時だと思う写真が額に入って掛けてあった様な気もする。 私の通った幼稚園は音楽の練習が厳しかったのだろう。それは小学校に入学したとき、1年生の音楽の授業がとても易しかったからそのように記憶しているだけなのかもしれない。 その頃自宅には、足踏み式オルガンがあった。その後、ピアノが来た。確か私たちの世代にとって最大のイベントだった東京オリンピックのあとだった。 兄姉がピアノ教室に通っていたので、私もついていって、そのうちにたぶん何年かピアノを習った。習いはじめてすぐにとてもおもしろくないものであることに気づいた。 私の記憶の中で、最初のオリジナル曲は、小学校4年の時に作曲したものである、と思っている。担任の先生の家庭訪問の時には、先生に自慢げにそのワルツの曲を弾いた様な気がするが、その風景は記憶の隅にあるものの、これもあやしい。 自分でなんとなく気ままにピアノを鳴らしているのは好きだった様だが、ピアノ教室は嫌だった。 小学5年の頃、世間はグループサウンズの時代だった。その頃にはどこかで友人の家にあったドラムスを叩いて得意げになっていたし、すでに何曲か曲を作っていたように思うので、スパイダース、テンプターズ、タイガース、ブルーコメッツなどの演奏をテレビで見ていたが、それらの曲を覚えると、すぐにオルガンで伴奏を付けて弾くことができたので、随分楽しかった。 もちろん、小学校5・6年で、友人と2つの当時で言うところのエレキバンド(というほどでもないが)を結成し、練習していた。 当時親しかった友達の自宅兼親の仕事場に、多くの余った木材があり、それを使ってボディーを作り、磁石にエナメル線を巻きつけてギターマイクを作って2・3本のエレキベースをつくって、それで演奏していた。学芸会を除くと特に人前に出ることはもちろんない小学生だった。小学校でのクラブは、器楽合奏部と放送部であった。 中学に上がって、吹奏楽部と放送部に入った。
高校でも吹奏楽部に入ったが、1年で退部した。
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