私のサンバ歴
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いろんな音楽が好きであり、いろんな楽器が好きな私は、小学校時代から、いろいろと楽器の演奏を覚えながら、しかしずっとやっていたことは、「ものをたたく」ということだった。
どうしてかはわからないけど、小学校のある時期には、ほとんど毎日、家にあった木の棒をナイフで削ってドラムのスティックのようなものを作り、空き箱を叩いていたような気がする。
中学時、吹奏楽のマーチから転じて、デキシーランドジャズ、その後「ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス」の影響で、メリアッチ(メキシコ音楽)、ペレス・プラド楽団のマンボと、ラテン音楽の方へ関心が流れながら、自分にとって心地よい音楽は、複雑な打楽器のリズムであるような気がしてきたようです。
いろんな音楽を聴き、多くの楽器を演奏し音楽にのめり込んでいたけれど、「音楽はきっと打楽器から始まった。人は火よりも、言葉よりも、何かを叩くことで、気持ちを表現し、絵を書くことより、ものを彫るよりも、すべての芸術の始まりは、打楽器で創る音楽だ」と勝手に考えていた。
その頃、長谷川きよしさんの「別れのサンバ」のレコードを聴いて、それは今から考えるとサンバというよりボサノバかもしれないけれど、それまでラテン系音楽に魅力を感じていたなんとも言葉にならない感覚が、もしやサンバと呼ばれる音楽かもしれないと、少しずつ自分の中で思う様になってきた。しかしもちろんその後随分先まで、本場ブラジルのサンバは聴いたことも無かった。でもそんな感覚で音楽を作っていた。今考えるとサンバもとき、ボサノバもどき的音楽は、かなり好きだった。「別れのサンバ」「透明なひとときを」など長谷川きよしさんの初期の歌は、とっても好きで、そんなふうに歌いたくて、元ラッパ吹きの私がまじめに歌の練習を始めるようになった。なにもわからないまま「自称サンバ愛好家」だった。
サンバへの思いが決定的になったのは、大学2年生の時、夜、FM大阪の何かの番組で、ある音楽が流れていた。その音楽にきき惚れていた。関西で言うところの「全身『さぶいぼ』状態」だった。これこそ求めていた音楽だった。興奮はさめることもなく、FM大阪に電話したか、FM雑誌で調べたかは記憶にないが、いったい誰の演奏なのかを調べた。
その曲は、「サンバ・カリオカ」の「サニー・プレイス・カーニバル」の「二人と海」(ロベルト・メネスカル、ロナルド・ボスコリ曲)という曲だった。その演奏メンバーは、中谷望、吉川祐二、アントニオ石田、佐藤正美、平野融(敬称略)・・・・・当時長谷川きよしさんとともに演奏していたメンバーだった。
そして、どんどんのめり込んでいった。
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